名古屋高等裁判所 昭和29年(う)1173号 判決
判決理由〔抄録〕
ここで、消防法、道路交通取締法、同施行令等の規定を見るに、消防法第二十六条第一項においては、消防車が火災現場に赴くときは、車馬及び歩行者はこれに道路を譲らなければならず、消防車が接近したときは、車馬等は道路左側にできる限り寄り添い、消防車の通過するまで停止しなければならない旨を規定し、又、道路交通取締法第十九条においては、交叉点における緊急自動車(消防自動車は、これに当る。)の優先について規定しているのであって、車馬及び歩行者に対して、避譲義務を課していることが明らかである。そして、消防法第二十六条第二項、道路交通取締法施行令第二十八条等の規定により、緊急自動車の内消防自動車は車体を朱色に塗り、赤色燈及びサイレンを備え、緊急出動の際は、赤色燈を点け、サイレンを鳴らして、その接近を警告するものであることが認められる。当裁判所は、消防自動車を運転操縦する被告人の注意義務を考察するについて、これ等の規定を考慮に加えて然るべきものであると思料する。唯、現実に事故発生の危険が生じている場合には、如何に消防自動車であるとしても、前記の各規定によっては、注意義務を軽減さるべきものでないことは、検察官所論のとおりであるが、右各規定の存在は、前記注意義務の認定に影響がないとはいわれない。本件当時において、車馬及び通行人等が消防自動車の通過を待避していたことは、原判決も認定しているとおりであって、証拠上明らかであるが、唯本件の被害者だけが待避停止せずに、消防自動車の方に向って進行を継続して来たのであって、その理由は、幾多の証拠を検討しても判明せず、原判示のように永遠の謎として残されるのであるが、被害者は、酒井毛織の玄関前までは、道路の北端寄りを東進して来ていたのであるから、被告人が被害者を発見した当初において、何等事故発生の危険を感じなかったというのは当然であって、従って、被告人がその当時より道路中央部稍左寄りを進行すべき義務ありとはいわれないこと前説示のとおりであるのみならず、その当時、被告人が減速の措置を採らなかったことは被告人も述べるとおりであるが、未だ減速すべき義務ありともいわれない。ところが、被害者は酒井毛織の玄関前を通過した後、玄関東端より東方道路上に置かれてあった障碍物を避けるため、自転車の進路を斜めに道路中央部に向けて進行し、障碍物の南端附近を東進して来たものであることは、原審における証人安達秀男、同杉浦晋一、同河井慶一の各供述、被告人の原審における供述及び司法警察員に対する供述調書によって、これを認めることができる。その際における被告人の事故発生の危険の認識について、被告人の原審における供述には、被害者が玄関東端より道路中央部に向って進行し、障碍物の赤土の処へ出て来た時、危いとは思わなかったという部分もあり、危いなあと思ったという部分もあって、一貫していないのであるが、当時の消防自動車の通過線と障碍物の幅から考え、消防自動車の右側における余裕間隔からして、被告人としては、事故発生の危険があると感じたであろうと認めるのが相当である。被告人は、その頃ハンドルを少し左に切ったと述べていて、それは、被害者と擦れ違う時であったというているが、果してその記憶が間違いないものかどうか疑なきを得ないところであって、自動車を運転する者として、右のような危険を感じた際には、ハンドルを左に切ることは経験上疑のないところであるから、その時期は、被告人が被害者が出て来て危険を感じた時であろうと認めるのが時宜に適するものと思料される。しかし、被告人がハンドルを左に切ったことによっても、被害者の方に消防自動車の後部を接近させて接触させたものとは認められないこと、前説示に徴して明らかであるから、この点をもって被告人を責める訳にはいかない。次に、被告人が前認定のように事故発生の危険を感じた時における消防自動車と被害者との間隔並びに接触地点との関係を考察するに、原審及び当審における証人戸塚庸一の各供述によると、被害者と被告人との間の距離は、約四十二米ありそれより、被告人の消防自動車は約三十米進行し、被害者は約十二米前進して来た地点で接触したものであると認められるので、被告人が被害者を約四十二米前方に認めて、約三十米進行するまでの間に被害者との接触を避ける方法があったか否かが、問題の最要点と考えられる。鑑定人戸塚庸一の鑑定書並びに原審及び当審における証人戸塚庸一の各供述によれば、消防自動車が接触現場に差し蒐った時は、カーブを曲り終った直後で、自動車の慣性が右斜前方向であり、なお乗車人員の慣性による動揺等のため、車輛の左側(原判決に右側とあるは誤記と認める。)全体が浮き加減になっている状態であったので、急にハンドルを左に切ることは、自動車を右方に転覆させる危険があることが認められるので、被告人に対して、その危険を冒して、かかる措置に出ずべき義務ありとはなし得ない。即ち、被告人は、この際、急遽ハンドルを左に切って、被害者との接触を避けられるような間隔を採って操縦すべき業務上の注意義務があり、従って、被告人にその注意義務の懈怠があるということは認めることはできない。更に、被告人において急停車の措置を取れば、接触地点に至るまでに消防自動車を停車させて、接触を避け得たか否かについて考察するに、原審における証人戸塚庸一の供述によると、本件消防自動車の速度から考えて、接触地点において停車させるためには、少くとも三十三米手前において、停車の措置を採らなければならないことが認められるのである。このことは、被告人が原審における検証の際に、停車の措置を採ってから消防自動車が停車した地点までの距離が三十米余りあることからも、裏付け得られると思料される。従って、被告人が前記の事故発生の危険を感じた瞬間において、急停車の措置を採ったとしても、接触は避け得られなかったであろうと考えられ、まして減速の措置を採るも、到底目的を達することはできなかったであろうと思料される。ここで振り返って、被告人と被害者との距離が約四十二米の近距離に接近する以前において、被告人に被害者との接触の危険を防止するために何等かの措置を講ずべき義務があったか否かを検討して見ることとする。被告人が被害者を当初発見した当時から被害者が道路の北端寄りを進行して来ていた当時、被告人に道路中央部稍左寄り或は更に道路の左寄りを進行すべき義務を認め得ないこと及び減速すべき義務も認めることができないことは、前説示のとおりであるが、論者或は、被害者が何時道路中央方向に進行して来るかも知れないから、左様な場合に対処する注意義務ありというかも知れないが、被告人が普通自動車を運転操縦していた場合には、そのような注意義務のあることは認容されるであろうけれども、本件の消防自動車を運転操縦している場合には、通行の車馬及歩行者に前記のような避譲義務が課せられているので、被告人としては、車馬等が右避譲義務を履行して、通常待避して呉れるものと信ずるのは、条理上然るべきところであるから、被害者が何時道路中央方向に進行して来るかも知れないことに対処する注意義務を被告人に課することはできないと解するを相当とする。この点において、前記消防法等の各規定が被告人の注意義務に影響を与えることがあると思料するものである。従って、被害者との距離が約四十二米の近距離に接近する以前から、被告人に道路左寄りを進行すべき義務ありとか、或は、減速すべき義務ありとかということは、当裁判所の認容し難いところである。叙上説示の各事実に冒頭に認定した消防自動車と自転車との接触の状態を綜合して考察すると、被告人に本件消防自動車の運転操縦について課せらるべき注意義務の懈怠があるとは、到底認めることができない。